【演劇】「心底の写し鏡」森山未來のヘドウィグ

森山未來ヘドウィグ・アンド・アングリーインチを観劇。いや、劇、というか、ライブ。
観て間もないので、その抱いた感覚をうまく咀嚼できていないのだけれども、ああ、これは、価値ある舞台だったと観ている最中に思った。音楽の振動やライブ特有の一体感がそうさせているのではなく、舞台の主役、狂う森山未來に心酔していたのだ。

舞台のテーマは、プラトンの「愛の起源」に書かれているように、「かたわれ探し」だ。
アダムの助骨からイヴが生まれたように、本来人間は、背中合わせの「一つ」だった。だが神によって男女は引き裂かれ、その痛みを忘れさせないためにへそに傷を残されたという。時は流れても、性が生まれる前の記憶は残り、もう一度、一つになることを望んで、男女は自分のかたわれ(=愛)を探し続けている。

現代版のヘドウィグも、自分のかたわれを探し続けていた。
原子力発電所が爆発し、その被害を止める為に、「壁」(原作ではベルリンの壁)が作られ社会から隔離された街で育った彼のアイデンティティは「ロックとヘンタイ」。壁の中の唯一の娯楽であったラジオから流れてきたロックに熱中し、実父から性的行為を受けていたのだ。
たまたま入った教会で出会った男色の神父に運命を感じ、共に壁の外へ出る為に、母からパスポートと氏名を得るが、性だけはごまかすことができなかった。「自由を得るには何か捨てなければならない」と諭され、引き換えに性転換を試みるのだが、麻酔すらない壁の中の手術は失敗し、彼の股間には「アングリーインチ」が残る。更には神父に捨てられ、追い打ちをかけるように壁に囲まれた街は爆撃によって破壊され、ヘドウィグは孤立してしまう。

そんな時にふと訪れた教会で、キリスト像の前で自慰をする少年トミーと出会った。彼から運命のような絆を見いだし、彼に自身のロックの知識を教え溺愛したのだが、ヘドウィグが女性でないと気付くと(彼の残された「インチ」を触り困惑し)、彼は離れていってしまった。そしてトミーは、知識の実を食べたアダムとイヴのように、ヘドウィグのロックの知識を利用しロックスターに登り詰める。(性を無くしたヘドウィグは、かたわれを探す人間であるが、人を生み出す神にもなっているのだ。)


出生の不条理と、性のない不完全な身体(片端)への怒り、かたわれの裏切り、すべての怒りがヘドウィグに渦巻き、彼は荒れ狂い、トミーとの境界線すらぼやけていくのだが、それを演じる森山未來がすばらしかった。舞台でシャウトし暴れまくる。客席ダイブも、10階段上の舞台からのジャンプも。森山は怒り狂っていた。まつげもとれるわ、かつらもとれる。フロントスタンディングで棒立ちの私に、彼のエネルギーが痛いほど刺さってきた。

森山はHPで、
「このライブが、皆さんの写し鏡になれば幸いです」
と述べている (http://www.hedwig2012.jp/cast.html) 

舞台に心酔できたのは、自分の中にある心の奥底に押込められた欲求が満たされないことへの怒りが、ヘドウィグによって発散されているだからだろう。今の日本を取り巻く環境の不条理や、未完成の自分への焦りや怒り、いつか一線を超えて狂ってしまう予感がヘドウィグと共鳴して、心高まったのだ。
今の人々の本心は、求めるものを何としてでも手に入れたく、それが叶えられない状況に対して、怒りの感情を爆発させ、暴れたいのだ。子供が泣くように、感情の赴くままに叫びたいのだ。だがそれは大人になるにつれて出来なくなる。協調を重んじる日本で、先行きの見えない不安が充満する今の状況であれば、なおさら。

彼は、ヘドウィグという役を通して、今ある私たちを写していた。
けれども、彼の状況は、実は狂っているように見えて、深く純粋な愛と救済を、湧き出るままにシャウトしているようにも思えた。狂気の源泉は純粋だという自論がある。純粋が深く強ければ、吐き出し口のない思いが吹き出したときに、狂気を帯びたように見えるのだ。
銀幕では味わう事が出来ない森山未來の生々しい叫びに、人間の深い魅力を肌で感じることが出来た。心酔。


夜は涼しくなってきた。秋思。