【演劇】小林賢太郎の「ロールシャッハ」

伊坂幸太郎の小説と同類のカテゴリに入りそうな、小林賢太郎の戯曲。
SFという点ではなく、物語の構成や醸す空気感がなんだか似ている。
ロールシャッハ


あらすじは、パラレルワールドに住む住民が、世界の果てにある「壁」の向こうの世界=こちらの世界(向こうからしてみればこちら側がパラレルワールド)に大砲を放つ為に招集され奮闘するお話。
ここでのパラレルワールドの定義は、似ているがどこか違う、現実と平行して存在する世界としており、’鏡に映った’向こう側の世界になっている。つまり、「もう一人の自分」がテーマ。
 
招集メンバーは「自分」に軸が通っていない、例えば「違う気質の人間になりたい」「口だけで行動しない自分を恥じる」「本心を隠して違う自分を装う」といった、自分だけども誰か別の人の生活を送る人たち。
実は大砲を打つのは、そのあとの巨大ミサイルを通りやすくする為であり、彼らは戦略の全貌を知らずに駒となり働いていた。壁の向こうに対する人物の行動を想像して攻撃するか、撤退するか問答するが、「限りなく自分に近い」ことを前提に、自分たちが思った通りのことをして後悔しないよう納得する。最後には自分を信じてね!という割とアンパンマン的なメッセージが込められ、老若男女楽しめる、許容範囲の広い幕の終わりとなる。
構成、演出はチェーホフの銃のごとく、無駄なくシンプル。全ては結論に至るまでの伏線で、ちょっと目を覆いたくなる蛇足の場も、最後には、ああ成る程と手を打つことにつながる。線で組立てられた箱みたいできれいだった。

その中で印象的なシーン。
大砲を打つか打たぬか迷う際に、ちょっと囚人のジレンマのようなシーンがあった。
点数化はないけれども、向こうが打つのにこちらは打たないのは、とか、こっちが打って向こうが打たなかったら、とか。基本的には性善説に立っていたお話であり、自分の清い行動を信じる人が全員でハッピーエンドに終わるのだけれども。
もし、その中で何人かが性悪説を唱えていたならばどうなるのだろうか?組織の中で処刑制度があったならばそういった行動をとらなかっただろうか?鏡の世界というのは実はこちらの誤読であると信じる人がいたらどうだろうか?
アンパンマンの世界から現実の世界へ、一歩複雑化した時にこの物語の結論がどうなったのだろうかと気になる。

鏡の世界だけれども「少し違う」のが前提なのだから、その「違う」部分を小林賢太郎に表現してもらいたかったのが正直なところ。例えば、気の小さい青年が、自分を簡単に信じられない弱さを拭えず、結果臆した。その場合、そこにいる集団にどんな歪みが生じていくのか、とか。「ロールシャッハ」という言葉に深みを求めるならば、個々人による見え方の違いを描く、もしくは観客それぞれによって捉え方が異なる場を作ることも考えられる。
いや、そもそも向こうこそがこちらのパラレルワールド。こちらと少し違う=アンパンマン的安泰の世、なのだろうか。

ともあれ、ブラックジョークなのか、滑稽なのか。どこに行き着くかは分からないが、少しの「違い」を投入することで、あっと驚く手品のような演劇が観たかったのだ。