再会、際会、再開

 何かに出会うことのみが、歩み続ける活力になる。マンネリはきらいよ、ということではないのだけれど、自分ひとりだとどーしてもクセが強くて(えぐみのようなものがとれなくて)、ネットリした思考の沼から抜け出しくい。そうこうするうちに溺れてしまう(たいてい溺れていることに気づかないのだけど)。それに、ひとりじゃきれいに飛べないし躍れない。甘美な孤独とその代償を天秤にかけながら、身を削って生きているアプローチに反動が欲しい。
 何が言いたいかというと、書を捨てて街に出よというよりも、自分を出よ。もしくは自と他の境界に立て、ということ。偶然の魔力をもった他力と出会う事でおこる新しい何かに、ちがう方向に導かれ、然れども断続して歩ませてもらいたい。
 
 歩みを続ける上で感じる何かを穫って言葉でかこってピンで壁にさしておけるような、この場所にももう一度立ち返ってみる。それは問題は解決するより解消せよという言葉を受けて。「きれい」にしまっておけない言葉を留めることから始めるのも一つありかなと思う。

【アート】アートと音楽「思考を殺す音たち」

東京都現代美術館の企画展「アートと音楽」「風が吹けば桶家が儲かる」を鑑賞。2/3が最終日だったので、滑り込みセーフ。前者の展示は、「坂本龍一」のインスタレーションもあり、話題性は抜群。

最初の展示から面白い。
セレスト・ブルシエ=ムジュノの「クリナメン
http://www.mot-art-museum.jp/music/celeste-boursier-mougenot.html

円形のプールの中には大小さまざまな食器(スープ皿のような深皿)が浮かんでおり、プールの一カ所から吹き出る水によって生じた水流の上を食器が泳ぐ。大小の食器はぶつかり、高音や低音さまざまの音をプールのあちこちで鳴らすのである。その音は室内に響き、空間の中で遠近の音の響きや、音の連鎖を感じることができる。

「脳の中のおしゃべりに似ている」
この作品を暫く見ていて、そう思った。なぜだろう。着想を得るときの感覚が似ているのだろうか。脳の中では耐えず考えが流れ、あちこちでおしゃべりがあり、時に、「カチン」「チーン」と、思いつくのである。そんな感覚に似ている。うまく言語化できないけれど、私の場合、脳の中では線形ではなく、連鎖型で耐えず思考や連想が続いている。それが時間軸で流れ、ぶつかりあい、「カチン」「チーン」と着想を得るのだ。大概それは走っている時に起こるのだけれど。

オノセイゲン坂本龍一+高谷史郎の作品は、ちょっと変わった茶室でのインスタレーションだ。
4人が入れる真っ暗な茶室を模した空間に、靴を脱いで入る。その中では、周囲のざわめきのボリュームが一段下がる。そのため、「静寂の中で音を聴こうとする」姿勢を促されるのだが、特殊な内壁には、高音の感知を鈍らせる仕組みが施されており、音を聴こうとしても、普段の聴覚の感覚とはズレがあるのだ。なおさら音と向き合おうとする熱量が増すことに繋がるのだが、とても残念なことに、私にとっては、「狭く静寂な空間ー高音の感知力」=気持ち悪い。感覚が使えないことは、これほどまでに苦しいのか、とクラクラした。聴覚は平衡感覚を司るところからなのか?と、体験の結果、聴覚器官への興味は増す事になり、作品としてはとても良いのだけれども。

http://www.mot-art-museum.jp/music/seige-ono_ryuichi-sakamoto_shiro-takatani.html


他にも、「聴覚」を中心に五感を使うたくさんの面白いインスタレーションがあった。
ミルクの表面に、人間の耳では近く出来ない低周波音をあて、Hz(ヘルツ)の違いでその文様が変化する様を描く、カールステン・ニコライの「ミルク」シリーズ。
この表面の文様たちは、幾何学的で、美しい。音の視覚化は色々な方法で試されているのだろうが、この作品ほどシンプルで本質的と思える作品はどれほどあるのだろう。音の視覚化は、数学と同じく、何やら裏に法則がありそうだ。

たまたま見つけた、この方のブログもご参考。
「やまでらくみこのレシピ」
http://kumiko-jp.com/archives/53847994.html

そして、「音楽は時間と共に流れる」という発想からも解放されなければならない。すなわち、「音楽は時間にそって線形で表現することから逃れられないが、絵画は時空を超える」ということだ。
パウル・クレーや、ウドムサック・クリサナミスの、目で見て、頭の中で勝手に再生される音楽たち。

http://www.mot-art-museum.jp/music/udomsak-krisanamis.html


音を聞く事は、思考を殺すことに他ならない、とこの展示会の中にいて思った。
外部の「瞬間」に集中することで、内部の「私」はいとも簡単に消滅した。脳の中のおしゃべりはない。脳の中で、点としてあちこちで食器が音を立てているような、そんな感覚だけが残る。
そのうち外部の不思議な音たちに取り付かれて、トランス状態になった時、感覚依存の脳を感じて、「ああ、やはり脳も体の一部であり、所有者の私以外の何ものかの、私であって私でないものの、配下にある一器官なのだろう」とぼんやりと思った。
そして低周波のように、見えない音の波長を、知覚しない私に変わって、きっと勝手に感知しているのだろう、とも。

非常に面白かったが、残念ながらもう最終日。
大混雑のインスタレーションだったが、願わくば、音は静寂の中で聞きたかった。

新年あけました。まずはInputOutput体制整備

新年あけました。
 気持ちのリセットや特別な意気込みというものは、まったく無い2013年元旦。
 外は吹雪という極寒の地元。住んでるところは海だから雪はすぐに溶けてしまうけれど、東京とくらべるととても寒く、家は自然の大きな叫び声につつまれている。それは東京の雑音に比べれば、生きている抑揚があって、恐れは無いし、むしろ心は穏やかになる。深更、心しずかな一人の時間がある。
 その中で思うに、去年はアウトプットの頻度が少なかったなあ、と。インプットも少なかった。ひたすら発酵してたかもしれない。ふっかいところまで言って気付くことこそが最良だと思い込んでいた節があった。
 けれどもそうなのだろうか?
 直感はあっというまに本質を捉えているとは思わないだろうか。そうしてその本質にたどり着くまでの道のりを、うまく把握できないために、つまり言語化・構造化できないために「わからない」という状態になっていたのではないだろうか。自分のスタンスがぼやけて、多角的に見すぎているために、たくさんの情報の切り取り方に頭がこんがらがって、「わからない」と考え抜くことを放棄していたのではないだろうか。はたや、心と頭のずれを’ミテミヌフリ’をして、そう思いたくないことを「わからない」として断定を避けていたのではないか。
 年が明けた今更ながらに思う。「わからない」と言って、いったんの区切りをつけずに、宙に浮いたままの曖昧さを、曖昧がゆえの責任転嫁を、行っていた。自分を押し込めて、それを自由と誤認していた節もある。いやはや恥ずかし。
 今年は、インプットも大量にアウトプットも大量に。それを目標に、日々感じる、刹那のひらめきを謳歌したい。と格好良く新年まとめてみる。

 とりあえずRSSリーダー「Reeder(Google Reader)」を更新。様々な情報キュレーティングアプリが出ているけれども、やっぱり自分の目で見てSauceを押さえた方がよいなあ、と感じているから。
 もちろん補助アプリ併用するメリットは理解している。重複はあるけれど、RSS以外の情報収集の手段として、利用する方向で。FBのニュース情報も使えるかなと思ったけれど、内容に当たり外れがあるし、ジャンクな感じが否めないので、やっぱり息抜きツール&友人からの情報取得ツールでしかないか。
 その後は、はてブるか、Evernoteに蓄積して行く、従来型で行って、少し思うところがあれば、このブログか、公開できない書き物をDropboxに保管。
 むむむ。仕事が始まってこの体制を維持できるのかは正直やってみないと分からないけれど、時代の流れを傍観するのはやめる。そして、情報に溺れてしまうのであれば、捨てる者をとっとと捨てて、体制維持しなければとも思う。捨てることは戦略だし、その向かう先のスタンスを、決めておけば泥の中でもとりあえずの藻掻き方は分かる訳だ。

 そんな感じで2013年はじまる。

【演劇】「生きちゃってどうすんだ」松尾スズキ

中村勘三郎、死去。」
というニュースが飛び込んできたのは12月の5日で、その日は早朝出社で仕事を始めようと思っていたのだが、朝っぱらから度肝を抜かれてしまった。まだ若いのに…。文春の記事を呼んで危惧してはいたものの、こんなに早い死を迎えるとは。衝撃だった。大きな喪失感を感じた。
現代歌舞伎での集客力がずば抜けており、将来の人間国宝となる人を早くに失ったのだから、歌舞伎界にとっては大きな損害だろう。いや、もっと言うと、単なる伝統継承者としての国宝以上の価値を残す器量を持つ存在で、伝統を創造的に破壊し、新たな伝統を積み上げるイノベーターとなり得る人だった。広くパフォーミングアート界にとって、とてつもなく大きな損害になるだろう。例えるならiPhoneを出す前にSteve Jobsが死んでしまうようなもの。ああ惜しい。合掌。人間60年に満たない天才を見ると、それが天才が故の宿命なのかとさえ思う。

関連して、久々の観劇は下北の小劇場にて、松尾スズキの一人芝居、「生きちゃってどうすんだ」。しかも最前列。赤ちゃんのコントを試みる爺さんに扮したおっさん(松尾スズキ)のふんどし姿とかも間近で見れて、とってもとってもリアルに「生」を感じました。

老いを実感しながらも生きる人、
生の証明がなくとも生きる人、
新しい生の為に生きようとする人、
(生を自ら終えようとする人/新しい生を捨てようとする人、※声のみの出演)
生のリミットが分かり、早死にする宿命を持つ人、
人の生を奪って生きる人、
そして死ねない生き続ける人、物語のキーマン「すずちゃん」。
6人の松尾スズキが登場し、生との微妙な関係を語り、
最後には、「生きてやる!」とすずちゃん(100歳越えの老人)が、逆境の中を走り、生き抜く宣言をして幕を閉じる。

3.11を境にした、「生きちゃってどうすんだ?」という疑問が、この物語の核なのだろう。
5幕目に、警察官に憧れを抱く元・引きこもりの50歳が登場するのだが、彼は「両親も津波に流され、一人、生きちゃってどうすんだ」と嘆く。それは虚構(この物語)の中の嘘だったのだが、つまりは嘘の嘘、とてもリアルに感じられた。すずちゃんも、100歳を超えても死ねず、死のうとしようと首をくくるが、そこで3.11の地震津波に飲まれて結局命が助かってしまう。
対する松尾スズキの答えは、「生きてやる!」なのだ。
3.11を生と死の普遍的問題に、果ては笑いに昇華し、明確なメッセージを発する松尾には、物語の語り手として非常に好感を持つ。この点は園子温監督の「希望の国」よりも共感できる。(後に詳しく書きたいが、園の映画は中途半端で、どうせならノンフィクションにすれば良かったと思う。)

「生きてやる!」と言い切る根拠は何か。
勝手にこの演劇から意味を見いだすとしたら、チェーホフの銃のごとく、何度も登場するチーズにヒントがある。
つまり、人生はどろどろしたチーズのようなものであり、名前をつけた瞬間(=意味を規定した瞬間)に、セロファンが張られ1枚のスライスチーズになる。名前を持たせなければ、永遠に形無く、変幻自在。見るものの脳で勝手につくられた虚構の中にチーズを入れてくれる。だが名前をつければ、その場でチーズは固まり、「その時」に置いて行かれる。生を規定せずに、液状のまま、どろどろと流れていれば、「今」のままでいられる。「生きる意味を規定すべし」という非連続性の生ではなく、「育つ角のごとく」連続した生を生きよ、ということだと思う。
一方で、6幕6様、多角的な視点で語るのであるから、捉え方も多様。上記は私の視点での受け取り方に過ぎない。少し視点をずらせば、又違う見方になりそうだ。この「見たいように見れば」というスタンスは、多様な価値観を共存させてくれるから、私はとても好き。

観劇した今、
「生きちゃってどうすんだ?」と問われれば、
松尾スズキのごとく
「生きてやる!」
と力強くは言えないまでも、まだ十分に生きられるであろう私は、
「生きちゃってみながら、どうしようか考える。」と、答えるだろう。
でもこれは今の私の回答で、老いや、死の予感を感じ取ったときは、答えは変わるだろうし、その立場になってみないとどう答えるか分からない。意味を感じながらも漠としたまま明確に定義せず、流れたい方向に流れるのだろうと思う。

ーーー
(以下、物語の備忘録として。)
物語は、全6幕。「すずちゃん」という老人を巡る物語だ。
「人生はシャンソン」という下りから1幕目が始まり、毒蛾のケバケバしい衣装を着た70歳過ぎのシャンソン歌手が登場する(口調は、美輪明宏のよう)。性転換を繰り返し、性別不明の歌手はバラエティで冠番組を持ったかつての人気者。だが旬は去り、今は全てをさらけ出しつつ「ランク下げます」と歌い、30分50万円の過去の栄光と決別し、10万円でよいから、と生きようとする。「名前をつけるからそこで終わり、名前を持たないから永遠でいられる」というかつての恋人すずちゃんの名言を口ずさみ、老いに捕えられつつも、生にすがり続ける自分を嘆く。

2幕目は、痴漢の冤罪で聴取を受ける、ホモの彫刻家が主役。若かりし頃、彫刻モデルであったすずちゃんの裸体に感化され、男色を悟る。今では男色が災いし、大学教授の地位を追われて身分証明すら持たない状態。実体はあるのに生を証明できるものがなく、「見下げてご覧、夜のホモを」と自身を卑下する。

3幕目は、ゾンビ映画のゾンビ役者兼コーディネーター(口調はジャパネット高田)。新しい命を授かり、その命を守る為に、「ゾンビ」という生と対極の行動をとる。すなわち、魂込めて魂無くし、死んだ気になって死んで、子を喰わす為に子を喰う。またゾンビ研究(ゾンビに一番近い老人を観察する)の為に訪れた老人ホームで、元気に駆け回る100歳になろうとするすずちゃんを見たと証言する。

1-3の幕間に、すずちゃんの紹介。
広島、長崎で被爆するも、太平洋戦争を生き抜いたすずちゃんは、ある時はモデル、またあるときは漫画家、歌手など、多くの顔を持ち、戦後浅草の芸人としても人気を集める。「限りなく不謹慎、果てしなく無責任」な芸風で、18番はコント「自殺」(ずっと自殺できない、チャップリンを模した無声コント)。人気絶頂の中、失踪。行方知れず、様々な憶測飛び交う。

4幕目、人生相談所を営むブルース歌手と、相談に訪れた地下アイドル(キャッチフレーズは、現場に行けない過呼吸アイドル)。ブルース歌手は、体から角が生え、徐々に自身を突き破る奇病の遺伝子を持つ家系に生まれ、父、兄、姉全てが角が原因で無く亡くなっていた。唯一、祖父のみ角が生えず、面倒を見ていた姉の生命保険金で老人ホームに入っていた。それがすずちゃんである。自殺をも考えた売れないアイドルを鼓舞するも、彼自身が新たに生えた角が原因で間もなく死亡。(一方、アイドルは母親の彼氏に犯され、子供を身ごもり、憎しみが渦巻く状態であったが、物語の本編では触れられない。)すずちゃんの孫の情報は、アイドルによって提供される。

5幕目、こだま響く山奥で、すずちゃんを追うドキュメンタリー監督が、警察官に憧れる50歳の引きこもりに出会う。彼はすずちゃんと暫く暮らしていたが、彼自身が虚構で塗固められており、事実を正確に伝えない。警察官の恰好をしているが、憧れているだけ。だが腰につけたピストルだけは本物で、ドキュメンタリー監督の人生を乗っ取る。

幕間に、すずちゃんの話。100歳になり老人ホームを追い出され、山に移り住む。そこで前述の青年と過ごした後に、死のうと思い山を下りる。彼のコントのごとく、林檎の木に首をくくろうとするも、3.11の地震が発生し、津波に飲み込まれてしまう。生きながらえてたどり着いた先は福島の避難地区で、誰も人がいない中ですずちゃんは生き続けている。

6幕目、福島の避難地区、すずちゃんの家。寝ている老人の元へ、ドキュメンタリー監督の人生を生きる山の青年が訪ねてくる。世話を見てくれた孫娘からのビデオレターを持って。鑑賞するも、内容は介護疲れの愚痴がほとんどで、自身も角の影響で死の迫る境遇を嘆いている。角の生えない祖父を妬み、「死んじまえなんて言わないけれど、むしろ死なずに生きちまえ」という辛辣なメッセージだった。ただ最後に優しさを帯びた「新作コントを見たかった」という孫の言葉に応える為に、赤ん坊の恰好をして、コントを行おうとする。とたん、大爆発ありて、訳が分からずその中を老人は必死で逃げる。そして、今更死がやってきたのか、と抗いながら、「生き抜いてやる!」と力強い老人の言葉で、幕は閉じる。

【演劇】小林賢太郎の「ロールシャッハ」

伊坂幸太郎の小説と同類のカテゴリに入りそうな、小林賢太郎の戯曲。
SFという点ではなく、物語の構成や醸す空気感がなんだか似ている。
ロールシャッハ


あらすじは、パラレルワールドに住む住民が、世界の果てにある「壁」の向こうの世界=こちらの世界(向こうからしてみればこちら側がパラレルワールド)に大砲を放つ為に招集され奮闘するお話。
ここでのパラレルワールドの定義は、似ているがどこか違う、現実と平行して存在する世界としており、’鏡に映った’向こう側の世界になっている。つまり、「もう一人の自分」がテーマ。
 
招集メンバーは「自分」に軸が通っていない、例えば「違う気質の人間になりたい」「口だけで行動しない自分を恥じる」「本心を隠して違う自分を装う」といった、自分だけども誰か別の人の生活を送る人たち。
実は大砲を打つのは、そのあとの巨大ミサイルを通りやすくする為であり、彼らは戦略の全貌を知らずに駒となり働いていた。壁の向こうに対する人物の行動を想像して攻撃するか、撤退するか問答するが、「限りなく自分に近い」ことを前提に、自分たちが思った通りのことをして後悔しないよう納得する。最後には自分を信じてね!という割とアンパンマン的なメッセージが込められ、老若男女楽しめる、許容範囲の広い幕の終わりとなる。
構成、演出はチェーホフの銃のごとく、無駄なくシンプル。全ては結論に至るまでの伏線で、ちょっと目を覆いたくなる蛇足の場も、最後には、ああ成る程と手を打つことにつながる。線で組立てられた箱みたいできれいだった。

その中で印象的なシーン。
大砲を打つか打たぬか迷う際に、ちょっと囚人のジレンマのようなシーンがあった。
点数化はないけれども、向こうが打つのにこちらは打たないのは、とか、こっちが打って向こうが打たなかったら、とか。基本的には性善説に立っていたお話であり、自分の清い行動を信じる人が全員でハッピーエンドに終わるのだけれども。
もし、その中で何人かが性悪説を唱えていたならばどうなるのだろうか?組織の中で処刑制度があったならばそういった行動をとらなかっただろうか?鏡の世界というのは実はこちらの誤読であると信じる人がいたらどうだろうか?
アンパンマンの世界から現実の世界へ、一歩複雑化した時にこの物語の結論がどうなったのだろうかと気になる。

鏡の世界だけれども「少し違う」のが前提なのだから、その「違う」部分を小林賢太郎に表現してもらいたかったのが正直なところ。例えば、気の小さい青年が、自分を簡単に信じられない弱さを拭えず、結果臆した。その場合、そこにいる集団にどんな歪みが生じていくのか、とか。「ロールシャッハ」という言葉に深みを求めるならば、個々人による見え方の違いを描く、もしくは観客それぞれによって捉え方が異なる場を作ることも考えられる。
いや、そもそも向こうこそがこちらのパラレルワールド。こちらと少し違う=アンパンマン的安泰の世、なのだろうか。

ともあれ、ブラックジョークなのか、滑稽なのか。どこに行き着くかは分からないが、少しの「違い」を投入することで、あっと驚く手品のような演劇が観たかったのだ。

【雑感】かませ犬がほざく

金曜の夜は、「Thanks GOD!!」と叫びたくなる開放感が普段は殺伐としたオフィスにも漂うのだが、その日は予定無く、仕事をしようと思っていた。金曜日の夜に予定の無い女は無条件で寂しい女である。

その惨めさを客観視しないよう、仕事をがんばる自分を正当化していたところに、友人から「今日はあいてる?」という連絡あり。一気に「女」として昇格が決定いたしましたので、都会の、人もまばらなオフィスに残っているであろう、数多の寂しい女どもを高みから蔑んでやったぜ。うひゃっほーい!

連絡をくれた友人を私はとても尊敬している。彼と話をするのも着想を得られて刺激的なのだが、交友範囲の広い彼にくっついていると、色々な人と出会い語ることができる。それもまた私の瞳孔を大きくさせる。お目めきらっきら状態になる。視点の異なる人たちからの、たくさんの言葉は、自分を客観視させてくれる。その感性は軌道修正をするためのヒントに富む。海賊が、豪華絢爛な宝部屋に、一歩一歩足を踏み入れていくような気分にさせてくれるのだ。

昨日は、友人と数回飲んだことのある素敵な人。の間に入らせていただき、恐縮しながら会話をした。ので、忘れないうちに備忘録としてまとめることにした。


・女の市場価値
金曜の夜に予定がないことに諸先輩型から説教をされてしまった。やっぱり?
そう、市場価値が高いのは、まさに今、わかいうちである。この広い世の中には「金曜日に、しかも当日になって誘うなんて。(私を誰だと思ってるの。)」という強気の女性もいるそうで、仕事をするなんて、もったいない、と言うのだ。そういう女をどう思うかと聞かれたので、私はこう回答した。
「10年後も同じことを言えるか聞いてみたいですね。」
だが少し、発言に(あれ?)と思うしこりがあった。

発言の意は、おこがましい、ということである。だが「何様だキサマ!」と思うと同時に「だがそれは負け犬の遠吠えか?」とも思い、どきりとしてしまったのだ。女の旬の時期、つまり女としての市場価値が高いことを理解して、予定をつめ入れ、横柄さを丸出しにしながら購入希望の男性の間を闊歩する。そんな女性には「必然的な自信の表れ」あるのではないか。彼女を卑下する自分には、自己正当化によって気付かないようにしている、モテる奴への羨望と、出来ない自分への皮肉がある。

ずぼら女子が、恋を理由に「おしゃれをしないなんてありえない」と豹変するのと同様に、やろうと思えば出来なくはないと言われたが(「なぜなら男は馬鹿だから」らしい。)、そこには明白な境界線が存在していて、それを超えようとは思わない。市場価値が下がった時に今いる場所に戻ってこられないからだ。一度ランクを上げてしまうと、もとのランクには戻しづらい。それに今の市場価値が安定的に続くとは思えない。10年後に、過去の栄光に浸ってしまうことの方が、今より惨めだと思うのである。私ならば、それよりも違う価値を出せないか若さをそちらに投資する。…だが、これを遠吠えと言わずして何と言おうか。

かく言う私は「つなぎの女」。「予定の前に、軽く一杯なら付き合うよ」と言わしめるポジションである。負け犬ではないけれども、かませ犬である。なぜなら、予定を入れると身動きがとれないような気分になってしまうので、直前に誘うことが多いからだ。束縛を嫌うがゆえの行動が、女の市場価値を高められない、実のところ大きなリスクだったりする。ああ不器用。


・ことばの意味
ニュースにもあったが、言葉の意味が時代の文脈によって意味が変化している。
若気る、割愛、生き様、拘り。ぶいぶい。
ちゃんと正しく意味を使えているであろうか?
思うに、よく企業が使う「こだわり」「おもてなし」という言葉は、もはや陳腐化していて、何かまとまるけど薄っぺらい。ことに「こだわり」に関しては、「拘り」と書き、もとは「拘泥」というネガティブなニュアンスが強かった言葉である。職人の魂とか尊ぶべき価値して使われるのはしっくりこない。
キーとなる言葉は、広がりすぎるとその価値が低下する。なぜなら同じ言葉を使っていても、その言葉で表現される意味(つまりリアルな事実)の質が、広まるにつれて低下するからである。


何か他にもとても考えることがあったのだが、二軒め、三軒め、終いには、この年でやってはいけない、ビール餃子ラーメン。翌朝の胃痛にかき消されてしもうた。
思い出したら追記しよう。とても素敵な夜だったから。

【演劇】「心底の写し鏡」森山未來のヘドウィグ

森山未來ヘドウィグ・アンド・アングリーインチを観劇。いや、劇、というか、ライブ。
観て間もないので、その抱いた感覚をうまく咀嚼できていないのだけれども、ああ、これは、価値ある舞台だったと観ている最中に思った。音楽の振動やライブ特有の一体感がそうさせているのではなく、舞台の主役、狂う森山未來に心酔していたのだ。

舞台のテーマは、プラトンの「愛の起源」に書かれているように、「かたわれ探し」だ。
アダムの助骨からイヴが生まれたように、本来人間は、背中合わせの「一つ」だった。だが神によって男女は引き裂かれ、その痛みを忘れさせないためにへそに傷を残されたという。時は流れても、性が生まれる前の記憶は残り、もう一度、一つになることを望んで、男女は自分のかたわれ(=愛)を探し続けている。

現代版のヘドウィグも、自分のかたわれを探し続けていた。
原子力発電所が爆発し、その被害を止める為に、「壁」(原作ではベルリンの壁)が作られ社会から隔離された街で育った彼のアイデンティティは「ロックとヘンタイ」。壁の中の唯一の娯楽であったラジオから流れてきたロックに熱中し、実父から性的行為を受けていたのだ。
たまたま入った教会で出会った男色の神父に運命を感じ、共に壁の外へ出る為に、母からパスポートと氏名を得るが、性だけはごまかすことができなかった。「自由を得るには何か捨てなければならない」と諭され、引き換えに性転換を試みるのだが、麻酔すらない壁の中の手術は失敗し、彼の股間には「アングリーインチ」が残る。更には神父に捨てられ、追い打ちをかけるように壁に囲まれた街は爆撃によって破壊され、ヘドウィグは孤立してしまう。

そんな時にふと訪れた教会で、キリスト像の前で自慰をする少年トミーと出会った。彼から運命のような絆を見いだし、彼に自身のロックの知識を教え溺愛したのだが、ヘドウィグが女性でないと気付くと(彼の残された「インチ」を触り困惑し)、彼は離れていってしまった。そしてトミーは、知識の実を食べたアダムとイヴのように、ヘドウィグのロックの知識を利用しロックスターに登り詰める。(性を無くしたヘドウィグは、かたわれを探す人間であるが、人を生み出す神にもなっているのだ。)


出生の不条理と、性のない不完全な身体(片端)への怒り、かたわれの裏切り、すべての怒りがヘドウィグに渦巻き、彼は荒れ狂い、トミーとの境界線すらぼやけていくのだが、それを演じる森山未來がすばらしかった。舞台でシャウトし暴れまくる。客席ダイブも、10階段上の舞台からのジャンプも。森山は怒り狂っていた。まつげもとれるわ、かつらもとれる。フロントスタンディングで棒立ちの私に、彼のエネルギーが痛いほど刺さってきた。

森山はHPで、
「このライブが、皆さんの写し鏡になれば幸いです」
と述べている (http://www.hedwig2012.jp/cast.html) 

舞台に心酔できたのは、自分の中にある心の奥底に押込められた欲求が満たされないことへの怒りが、ヘドウィグによって発散されているだからだろう。今の日本を取り巻く環境の不条理や、未完成の自分への焦りや怒り、いつか一線を超えて狂ってしまう予感がヘドウィグと共鳴して、心高まったのだ。
今の人々の本心は、求めるものを何としてでも手に入れたく、それが叶えられない状況に対して、怒りの感情を爆発させ、暴れたいのだ。子供が泣くように、感情の赴くままに叫びたいのだ。だがそれは大人になるにつれて出来なくなる。協調を重んじる日本で、先行きの見えない不安が充満する今の状況であれば、なおさら。

彼は、ヘドウィグという役を通して、今ある私たちを写していた。
けれども、彼の状況は、実は狂っているように見えて、深く純粋な愛と救済を、湧き出るままにシャウトしているようにも思えた。狂気の源泉は純粋だという自論がある。純粋が深く強ければ、吐き出し口のない思いが吹き出したときに、狂気を帯びたように見えるのだ。
銀幕では味わう事が出来ない森山未來の生々しい叫びに、人間の深い魅力を肌で感じることが出来た。心酔。


夜は涼しくなってきた。秋思。