【アート】アートと音楽「思考を殺す音たち」

東京都現代美術館の企画展「アートと音楽」「風が吹けば桶家が儲かる」を鑑賞。2/3が最終日だったので、滑り込みセーフ。前者の展示は、「坂本龍一」のインスタレーションもあり、話題性は抜群。

最初の展示から面白い。
セレスト・ブルシエ=ムジュノの「クリナメン
http://www.mot-art-museum.jp/music/celeste-boursier-mougenot.html

円形のプールの中には大小さまざまな食器(スープ皿のような深皿)が浮かんでおり、プールの一カ所から吹き出る水によって生じた水流の上を食器が泳ぐ。大小の食器はぶつかり、高音や低音さまざまの音をプールのあちこちで鳴らすのである。その音は室内に響き、空間の中で遠近の音の響きや、音の連鎖を感じることができる。

「脳の中のおしゃべりに似ている」
この作品を暫く見ていて、そう思った。なぜだろう。着想を得るときの感覚が似ているのだろうか。脳の中では耐えず考えが流れ、あちこちでおしゃべりがあり、時に、「カチン」「チーン」と、思いつくのである。そんな感覚に似ている。うまく言語化できないけれど、私の場合、脳の中では線形ではなく、連鎖型で耐えず思考や連想が続いている。それが時間軸で流れ、ぶつかりあい、「カチン」「チーン」と着想を得るのだ。大概それは走っている時に起こるのだけれど。

オノセイゲン坂本龍一+高谷史郎の作品は、ちょっと変わった茶室でのインスタレーションだ。
4人が入れる真っ暗な茶室を模した空間に、靴を脱いで入る。その中では、周囲のざわめきのボリュームが一段下がる。そのため、「静寂の中で音を聴こうとする」姿勢を促されるのだが、特殊な内壁には、高音の感知を鈍らせる仕組みが施されており、音を聴こうとしても、普段の聴覚の感覚とはズレがあるのだ。なおさら音と向き合おうとする熱量が増すことに繋がるのだが、とても残念なことに、私にとっては、「狭く静寂な空間ー高音の感知力」=気持ち悪い。感覚が使えないことは、これほどまでに苦しいのか、とクラクラした。聴覚は平衡感覚を司るところからなのか?と、体験の結果、聴覚器官への興味は増す事になり、作品としてはとても良いのだけれども。

http://www.mot-art-museum.jp/music/seige-ono_ryuichi-sakamoto_shiro-takatani.html


他にも、「聴覚」を中心に五感を使うたくさんの面白いインスタレーションがあった。
ミルクの表面に、人間の耳では近く出来ない低周波音をあて、Hz(ヘルツ)の違いでその文様が変化する様を描く、カールステン・ニコライの「ミルク」シリーズ。
この表面の文様たちは、幾何学的で、美しい。音の視覚化は色々な方法で試されているのだろうが、この作品ほどシンプルで本質的と思える作品はどれほどあるのだろう。音の視覚化は、数学と同じく、何やら裏に法則がありそうだ。

たまたま見つけた、この方のブログもご参考。
「やまでらくみこのレシピ」
http://kumiko-jp.com/archives/53847994.html

そして、「音楽は時間と共に流れる」という発想からも解放されなければならない。すなわち、「音楽は時間にそって線形で表現することから逃れられないが、絵画は時空を超える」ということだ。
パウル・クレーや、ウドムサック・クリサナミスの、目で見て、頭の中で勝手に再生される音楽たち。

http://www.mot-art-museum.jp/music/udomsak-krisanamis.html


音を聞く事は、思考を殺すことに他ならない、とこの展示会の中にいて思った。
外部の「瞬間」に集中することで、内部の「私」はいとも簡単に消滅した。脳の中のおしゃべりはない。脳の中で、点としてあちこちで食器が音を立てているような、そんな感覚だけが残る。
そのうち外部の不思議な音たちに取り付かれて、トランス状態になった時、感覚依存の脳を感じて、「ああ、やはり脳も体の一部であり、所有者の私以外の何ものかの、私であって私でないものの、配下にある一器官なのだろう」とぼんやりと思った。
そして低周波のように、見えない音の波長を、知覚しない私に変わって、きっと勝手に感知しているのだろう、とも。

非常に面白かったが、残念ながらもう最終日。
大混雑のインスタレーションだったが、願わくば、音は静寂の中で聞きたかった。