【演劇】「出生大博打」 ふくすけ

きちがい、びっこ、めくら、させこ、まんこ、巨頭症、薬、宗教詐欺、殺人、レイプ、近親相姦。ま、なんでもありですね。

出生の不条理をテーマにした放送禁止用語とびまくりの演劇。作・演出 松尾スズキ

ある製薬会社のミスで、薬を飲んだ妊婦から次々に奇形児が生まれていた。その会社の経営者であり、生まれた奇形児の中から特に症状の重い子供を集めて育成していた男爵/松尾スズキ。彼の一番のお気に入りは巨頭症のふくすけ/阿部サダヲ。ある日事件が明るみに出てふくすけは病院に収容される。
その病院ではたらくコオロギ/オクイシュージは看護婦から薬をもらっては打ち、彼女とのドラッグセックスを楽しんでいた。彼は女性へのDVが耐えない男であったが、目暗の妻にはいつも気遣い手を上げたことは無かった。(いつぞや落語家がいっていた。目暗とは差別用語でも何でも無く、目が明るいひとと暗い人という分類の言葉であって、目の暗い人への配慮の意が含まれていた。いつから差別の意を含んだのだろう。)ある日、病院にふくすけが入院したと聞きつけ、コオロギはふくすけを連れだしてしまう。

一方、メッキ工場を運営する地味で冴えない中年のエスダヒデイチ/古田新太は、蒸発した鬱病の妻スマ/大竹しのぶを探していた。幼少期に12人の友人からいじめられていたドモリ男である。夜をともにしたホテトル嬢のフタバ/多部美華子の協力で、彼女の知人である風俗ライターのタムラタモツ/皆川猿時とスマ探しが始まった。
そのスマは、歌舞伎町にいた。歌舞伎町の風俗王であり、兵器マニアのコズマ三兄弟のもとへ転がり込み、彼女のアイディアを取り入れた事業が悉く好評を博し、富を得ていたのだ。そのアイディアの一つは、「輪廻転生プレイ」。「一番刺激的なのは、死ぬ事なんかじゃない。一番は生まれる事でしょう。」という、出生の予測不可能な偶然性がはらむ刺激である。
出生の不条理。奇形として生れ落ちたふくすけは見せ物小屋で人気者となっていた。ある日、ふくすけ誘拐の罪でコオロギは逮捕されてしまう。出所した際にコオロギは、目暗の妻に「ふくすけと寝た?」と嫉妬心にまみれしつこく問いつめた為に、妻は転倒。目が覚めると人が変わり、神が降りてきたと言い出すのだ。そこからは見せ物小屋を離れ、ふくすけを教祖に奉り、宗教ビジネスを始める。

スマを探して上京したヒデイチであったが、妻の行方は依然不明なままだ。そんな中、選挙に立候補したスマのポスターをフタバが発見する。だがコズマ三兄弟の後援によって大人数の前で演説をするスマをやっと見つけたは良いが、人が変わった妻にヒデイチは会おうとはせず、地元に帰ってしまう。
一方、コズマ三兄弟には危機が訪れていた。内部の裏切り者の出現によって三女は死に、ふくすけの宗教団体によって選挙への反対運動が激化していたのだ。魔女狩りのごとく、次女も団体から攻撃を受ける。
その運動に巻き込まれたショックで元に戻ったコオロギの妻。宗教ビジネス記憶は無く、コオロギと二人で普段通りの幸せな生活に戻ろうとするのだが、「やっぱりふくすけと寝た?」と五月蝿く問いただすコオロギにに、妻は「寝たわよ!」と言い捨てる。コオロギは切れた。決して手を上げなかった男は、ダムの決壊するかのごとく妻に暴力をふるい続け、妻を殺してしまう。

ことの元凶の男爵は、純愛が過ぎて暴力を帯び、通り魔となって人を襲いながらふくすけを探す。たまたま対峙してしまったフタバは、彼に殺される。その後に巡り会った男爵とふくすけだが、ふくすけは男爵を殺してしまう。
地元に帰ったヒデイチは自宅の庭を耕していた。そこに出てきたのは赤ん坊の死体。実は鬱となったスマは、ヒデイチをいじめた12人の男と寝て彼らの子供を生み、生まれてきた子供を庭に埋めていたのだ。

川に落ちた子供を助けたスマは、歌舞伎町で、躁状態が終わり鬱に陥っていた。以前自分が子供を死産した時の事を思い出したのだ。そんなスマの前にふくすけが現れ、彼はセックスを強要する。セックスの最中に流れるニュースでは、病院に収容され今は行方不明のふくすけが、実はヒデイチとスマの子供だったことを告げる。
一方のその周囲では、コズマ三兄弟の次女が殺され、運動が激化。怒ったコズマ三兄弟の長女は、ぐちゃぐちゃになった人々の上に、兵器マニアとしてこっそり保管していた、最終兵器のミサイルを投下した。
本当はホテトル嬢にならずに純愛を貫きたかったフタバ、本当は普通の姿形で生まれてきたかったふくすけ、子供と幸せ家庭を築きたかったスマ。幸せな家庭を夢見ながら、彼らは無に帰す。

一人残されたヒデイチは、12人の友人を呼んで食卓を囲む。その料理は、赤ん坊の形をしており、食べる12人には白い覆面。彼らはとたん苦しみだす。食事に、メッキ工場で使用される青酸カリが入っていたのだ。そこへ、ヒデイチの、純愛の狂想曲が流れ幕が降りる。「これが私の純愛のかたちです。」と。



この舞台は、ストーリーラインも複雑で、そして決してハッピーエンドではなく、観た後に歪んだしこりをのこしていく。

生まれ落ちる場所は、自分の意志とは全く違うところにある。社会の価値観からみてマイナスに生れ落ちた人、マイナスに生まれ育ってしまった人が、そこからゼロに上がるには容易いことではない。少数派で孤独で、愛は純粋が故に歪み、歪んでしまった愛はなかなか元には戻らない。その悲しみをふくすけは実感し、見守り、破壊していく。

出生の不条理。ということは、最初の時点で既に決まっているのだろうか。人生の大きな方向性は。そう、子供は親の才と富と価値観を受け継ぐ。良い家に生まれた子供は親と同じように良い家を作る。それは、田舎町から上京した私にはとても身にしみて思う事であるし、周囲の人間の様な家系で育ったのならばまた違う生を歩んだだろうとも想像する。けれども生まれた後に価値観は植え付けられるので、良いとも悪いとも捉え方次第な所はあって、自分の家系がベースとなっているために中々自身の特異性は気付きにくい。はたからみればすげー不幸でも、その人が幸せと思えればいいじゃん、とも思う。

ふくすけはそれらの歪んだバージョンであって、一つの個性として肯定できればまた結果は違うことになるだろう。だが矛盾するが、無理に肯定という器にいれずに、自然に歪んでいくものである人間の異形は、返ってそうなることが人間くさくて至極まっとうな気もする。個人的にはそっちの方が好きだ。

私たちは気付かぬ間に、既に人生最大の大博打を打って、今ここにいる。けれどもそれが当たりかはずれかは、人生を生き抜いてみなければ分からない。人生をリセットする輪廻転生の思想は、次の博打に備えることだろうが、まだ若い私は、次よりも今を生き抜いていきたい。