【演劇】「生きちゃってどうすんだ」松尾スズキ

中村勘三郎、死去。」
というニュースが飛び込んできたのは12月の5日で、その日は早朝出社で仕事を始めようと思っていたのだが、朝っぱらから度肝を抜かれてしまった。まだ若いのに…。文春の記事を呼んで危惧してはいたものの、こんなに早い死を迎えるとは。衝撃だった。大きな喪失感を感じた。
現代歌舞伎での集客力がずば抜けており、将来の人間国宝となる人を早くに失ったのだから、歌舞伎界にとっては大きな損害だろう。いや、もっと言うと、単なる伝統継承者としての国宝以上の価値を残す器量を持つ存在で、伝統を創造的に破壊し、新たな伝統を積み上げるイノベーターとなり得る人だった。広くパフォーミングアート界にとって、とてつもなく大きな損害になるだろう。例えるならiPhoneを出す前にSteve Jobsが死んでしまうようなもの。ああ惜しい。合掌。人間60年に満たない天才を見ると、それが天才が故の宿命なのかとさえ思う。

関連して、久々の観劇は下北の小劇場にて、松尾スズキの一人芝居、「生きちゃってどうすんだ」。しかも最前列。赤ちゃんのコントを試みる爺さんに扮したおっさん(松尾スズキ)のふんどし姿とかも間近で見れて、とってもとってもリアルに「生」を感じました。

老いを実感しながらも生きる人、
生の証明がなくとも生きる人、
新しい生の為に生きようとする人、
(生を自ら終えようとする人/新しい生を捨てようとする人、※声のみの出演)
生のリミットが分かり、早死にする宿命を持つ人、
人の生を奪って生きる人、
そして死ねない生き続ける人、物語のキーマン「すずちゃん」。
6人の松尾スズキが登場し、生との微妙な関係を語り、
最後には、「生きてやる!」とすずちゃん(100歳越えの老人)が、逆境の中を走り、生き抜く宣言をして幕を閉じる。

3.11を境にした、「生きちゃってどうすんだ?」という疑問が、この物語の核なのだろう。
5幕目に、警察官に憧れを抱く元・引きこもりの50歳が登場するのだが、彼は「両親も津波に流され、一人、生きちゃってどうすんだ」と嘆く。それは虚構(この物語)の中の嘘だったのだが、つまりは嘘の嘘、とてもリアルに感じられた。すずちゃんも、100歳を超えても死ねず、死のうとしようと首をくくるが、そこで3.11の地震津波に飲まれて結局命が助かってしまう。
対する松尾スズキの答えは、「生きてやる!」なのだ。
3.11を生と死の普遍的問題に、果ては笑いに昇華し、明確なメッセージを発する松尾には、物語の語り手として非常に好感を持つ。この点は園子温監督の「希望の国」よりも共感できる。(後に詳しく書きたいが、園の映画は中途半端で、どうせならノンフィクションにすれば良かったと思う。)

「生きてやる!」と言い切る根拠は何か。
勝手にこの演劇から意味を見いだすとしたら、チェーホフの銃のごとく、何度も登場するチーズにヒントがある。
つまり、人生はどろどろしたチーズのようなものであり、名前をつけた瞬間(=意味を規定した瞬間)に、セロファンが張られ1枚のスライスチーズになる。名前を持たせなければ、永遠に形無く、変幻自在。見るものの脳で勝手につくられた虚構の中にチーズを入れてくれる。だが名前をつければ、その場でチーズは固まり、「その時」に置いて行かれる。生を規定せずに、液状のまま、どろどろと流れていれば、「今」のままでいられる。「生きる意味を規定すべし」という非連続性の生ではなく、「育つ角のごとく」連続した生を生きよ、ということだと思う。
一方で、6幕6様、多角的な視点で語るのであるから、捉え方も多様。上記は私の視点での受け取り方に過ぎない。少し視点をずらせば、又違う見方になりそうだ。この「見たいように見れば」というスタンスは、多様な価値観を共存させてくれるから、私はとても好き。

観劇した今、
「生きちゃってどうすんだ?」と問われれば、
松尾スズキのごとく
「生きてやる!」
と力強くは言えないまでも、まだ十分に生きられるであろう私は、
「生きちゃってみながら、どうしようか考える。」と、答えるだろう。
でもこれは今の私の回答で、老いや、死の予感を感じ取ったときは、答えは変わるだろうし、その立場になってみないとどう答えるか分からない。意味を感じながらも漠としたまま明確に定義せず、流れたい方向に流れるのだろうと思う。

ーーー
(以下、物語の備忘録として。)
物語は、全6幕。「すずちゃん」という老人を巡る物語だ。
「人生はシャンソン」という下りから1幕目が始まり、毒蛾のケバケバしい衣装を着た70歳過ぎのシャンソン歌手が登場する(口調は、美輪明宏のよう)。性転換を繰り返し、性別不明の歌手はバラエティで冠番組を持ったかつての人気者。だが旬は去り、今は全てをさらけ出しつつ「ランク下げます」と歌い、30分50万円の過去の栄光と決別し、10万円でよいから、と生きようとする。「名前をつけるからそこで終わり、名前を持たないから永遠でいられる」というかつての恋人すずちゃんの名言を口ずさみ、老いに捕えられつつも、生にすがり続ける自分を嘆く。

2幕目は、痴漢の冤罪で聴取を受ける、ホモの彫刻家が主役。若かりし頃、彫刻モデルであったすずちゃんの裸体に感化され、男色を悟る。今では男色が災いし、大学教授の地位を追われて身分証明すら持たない状態。実体はあるのに生を証明できるものがなく、「見下げてご覧、夜のホモを」と自身を卑下する。

3幕目は、ゾンビ映画のゾンビ役者兼コーディネーター(口調はジャパネット高田)。新しい命を授かり、その命を守る為に、「ゾンビ」という生と対極の行動をとる。すなわち、魂込めて魂無くし、死んだ気になって死んで、子を喰わす為に子を喰う。またゾンビ研究(ゾンビに一番近い老人を観察する)の為に訪れた老人ホームで、元気に駆け回る100歳になろうとするすずちゃんを見たと証言する。

1-3の幕間に、すずちゃんの紹介。
広島、長崎で被爆するも、太平洋戦争を生き抜いたすずちゃんは、ある時はモデル、またあるときは漫画家、歌手など、多くの顔を持ち、戦後浅草の芸人としても人気を集める。「限りなく不謹慎、果てしなく無責任」な芸風で、18番はコント「自殺」(ずっと自殺できない、チャップリンを模した無声コント)。人気絶頂の中、失踪。行方知れず、様々な憶測飛び交う。

4幕目、人生相談所を営むブルース歌手と、相談に訪れた地下アイドル(キャッチフレーズは、現場に行けない過呼吸アイドル)。ブルース歌手は、体から角が生え、徐々に自身を突き破る奇病の遺伝子を持つ家系に生まれ、父、兄、姉全てが角が原因で無く亡くなっていた。唯一、祖父のみ角が生えず、面倒を見ていた姉の生命保険金で老人ホームに入っていた。それがすずちゃんである。自殺をも考えた売れないアイドルを鼓舞するも、彼自身が新たに生えた角が原因で間もなく死亡。(一方、アイドルは母親の彼氏に犯され、子供を身ごもり、憎しみが渦巻く状態であったが、物語の本編では触れられない。)すずちゃんの孫の情報は、アイドルによって提供される。

5幕目、こだま響く山奥で、すずちゃんを追うドキュメンタリー監督が、警察官に憧れる50歳の引きこもりに出会う。彼はすずちゃんと暫く暮らしていたが、彼自身が虚構で塗固められており、事実を正確に伝えない。警察官の恰好をしているが、憧れているだけ。だが腰につけたピストルだけは本物で、ドキュメンタリー監督の人生を乗っ取る。

幕間に、すずちゃんの話。100歳になり老人ホームを追い出され、山に移り住む。そこで前述の青年と過ごした後に、死のうと思い山を下りる。彼のコントのごとく、林檎の木に首をくくろうとするも、3.11の地震が発生し、津波に飲み込まれてしまう。生きながらえてたどり着いた先は福島の避難地区で、誰も人がいない中ですずちゃんは生き続けている。

6幕目、福島の避難地区、すずちゃんの家。寝ている老人の元へ、ドキュメンタリー監督の人生を生きる山の青年が訪ねてくる。世話を見てくれた孫娘からのビデオレターを持って。鑑賞するも、内容は介護疲れの愚痴がほとんどで、自身も角の影響で死の迫る境遇を嘆いている。角の生えない祖父を妬み、「死んじまえなんて言わないけれど、むしろ死なずに生きちまえ」という辛辣なメッセージだった。ただ最後に優しさを帯びた「新作コントを見たかった」という孫の言葉に応える為に、赤ん坊の恰好をして、コントを行おうとする。とたん、大爆発ありて、訳が分からずその中を老人は必死で逃げる。そして、今更死がやってきたのか、と抗いながら、「生き抜いてやる!」と力強い老人の言葉で、幕は閉じる。