【落語】柳家花緑 「着想の精度」

最初その名前を見たときには、何て艶っぽい名前なのだと思った。

落語家って伝統の範疇で名付けられるのだと思っていたが(それか前座に多い馬鹿にふざけた名前で、頭から離れなくなる覚えやすさ重視の名前。)、ちょうどよい塩梅に現代の粋があるように感じて、目を引く。
柳家花緑。言うに及ばず、5代目柳家小さんの孫である。


CDで話を聞いたことはあるが、今日、初めて寄席で見た。
その日は叔父の6代目柳家小さん始め柳家の実力者が揃い、とても華やかな席だったように思う。
お客の質も良かった。落語を知っていて大きく笑う上客が会場を盛り上げており、噺家の方もぎょろぎょろと客席を見回しいくつかのギャグで会場の温度を確かめた後、
今日はよしとばかりに気持ち良さそうに演っていた。
いい席だった。

そうやって温まった会場に、トリの花緑が現れた。
もちろん客席からは「待ってました」の声が飛ぶ。
私も、心の中で「待ってました」とつぶやいた。

花緑の印象は、名前を見た時の想像とさほど変わらなかった。
40歳を超えているとは思えないほど風貌は若々しく、線は細いが、芯は通り、文字どおり「好青年」の印象である。
名にふさわしく繊細さと上品さが漂い、出来のよい若旦那のイメージがぴったりだった。

サラブレッドと言えばそれまでだが、9歳から落語を始め22歳で真打ちになったという花緑は、落語と共に育ち、受け継いだ才能と恵まれた環境で大きく開花した。
当たり前と言えばそうかもしれないが、持ち会わせた運と才を適切に(最大限に)使用したのだと思えてならない。
環境はどうあれ、背くことも堕ちることも容易いはずだ。
ましてや人間国宝のお家柄で、普通とは違う環境で、まっすぐに育つには、運と才の有効活用が無ければなし得ない、と勝手に思う。

花緑を観て思うのだ。運と才をうまく使う事ができる器は、こういう人なのだろう、と。
つまり、
「まっすぐな人だ」という印象。
冒頭で語っていた「着想」に関する考察から、そのストレートな人の良さがにじみ出ていたのだ。

彼の話した内容を簡単に要約するとこうである。
「日々の小さな発見が発見の連鎖を生み、日常を特別に変える。
その特別の中から着想を得て、落語という方法を用いて新しい芸を創るのだ」と。
古典の落語が生まれたのも、江戸時代の日常の中からである。

日々の中に隠れた小さきものの発見をすること、それはつまり「虫とり」のようなもので、
①日常に隠れた虫を探そうと目を凝らす姿勢と、
②虫を察知し獲得する感受性、
が必要になる。
感受性に対する持論なのだが、日々の流れの切り取り方や意味の見いだし方こそが②の感受性に影響している。
もともと枠なんてないのだから、それをどう獲るかというスタンスと、獲ったあとの表現にオリジナリティがあるのだ。

家禄は、②がサラブレッドが故に独特で、生まれた時点から人とは異なることは明らか。
けれども、それは「運と才」を持っているだけ。

そうではなくて、①の姿勢を持ち続けようとしているから、着想は精度を増す。


大概の人は、同じような虫をとるのだろう。
たぶんそれは、その人に根付く思想や考え方が同じような環境で育ったからで、同じ虫取り網(感受性)で、同じような虫取りレッスンを受けて来たからだとおもう(虫を探そうとする姿勢)。
虫取りでとれる物は想像に容易い。

花緑が自らの着想と感受性を嬉々として語る姿は、純粋な子供だった。
ひたすらまっすぐに。
自分の欲しい虫を探す、夢中になった少年がそこにいた。

彼をみていて、自分の持つセンスを研ぎすませる姿勢こそが、着想の精度を高める唯一のことなのだと思うのだ。


ちなみに、花録の演目は「猫久」。