【落語】「アハに似た体験」

「わたしは笑いに飢えている。」

と、最近しきりに自覚するので、とりあえず落語にずっぽりとはまってみている。今日はCDを10枚TSUTAYAで借りてしまった。
志の輔談春志らく、談笑。さん喬、喬太郎に市馬、左龍、一朝、昇太に花緑
知れば知る程広がっていく、落語の世界に、ずぶずぶと。
落語を聞きつつ、仕事をしては捗らない。捗らないから落語を聞く。
聞くと気になり止まらない。そうこうしつつの、ずぶずぶずぶずぶ。


「イマドキの人ならお笑いとか、宴会芸的な勢いで笑わす一発ギャグとかあるじゃん。何で落語?」
とよく聞かれるが、そういった場合は、

「イマドキの女一人、寄席に向かうのってえと、何でえ、悪いかい。」
と、心の中はなりきりの江戸弁で、表層はえへへーとごまかすのである。

というのも「落語=古風」というイメージが私の中にあって、落語好きと言ってしまうと、そのイメージが私にもついてしまいそうで恥ずかしく、自分の一人の楽しみは明るみに出さずにおこうと思ってしまうからだ。
ちなみに私は寄席で酒も飲む。(夜の席でも周りは全然飲んでいない)
平気で5時間くらい聞いていられる。
暇な訳ではないのだが、最近はくだらない飲み会に参加するくらいなら寄席に行きたいと思ってしまう。

…これでは嫁に遅れる。(断じて手遅れではない。)


遅れても良いから、つまんない合コンよりかは落語に浸りたい。
と、アラサーをして落語にハマらしめる理由。
ーーーそれは、「アハ」体験ならぬ「アハアハハ」体験が出来るからである。



昨今のお笑い番組では、瞬発的な笑いの提供が多く、流れで如何に笑わせるかという「空気作り」ありきの芸人が多い。
視覚的な滑稽さや、リアクションの面白さ、繰り返しボケ、激しい突込みなど、演出が派手で、一旦スイッチが入れば爆笑が連鎖する。
しかし笑いの琴線に触れねば、今一乗れないのだ。その場合は芸人の芸がイマイチと結論づけてしまう。
つまり、生み出されているのは「直感的な笑い」。感性が合わなければダメなのである。


一方の落語はどうか?
もちろん直感的な部分もある。あるが、こちらは、頭を使う笑い。つまり「想像力と論理」の笑いなのである。
言わずもがな、自分の頭で場面を描くのが落語で、笑えるかは自分の絵を描く能力にも要因があるし、噺家の熟練によっても違う。噺家が熟練すればする程、聞き手は絵を描きやすい。
そして何より、落語の知識があればある程、何倍も笑いが深まっていくから面白い。

そもそも古典落語の構成がすばらしい。
「いつもより早く出てそば屋を探して」(時そば
となれば、ここで伏線張りやがったな。と思うわけだ。
全体構成が分かれば、頭の中でストーリーを紡ぎ返せる。帰りに道に思い起こすことも楽しい。
(頭の中のストーリー構築、つまり噺の論理分析を無意識にやっているのだ)

また、
「熊さん、自分の死体が自分じゃないって気付きやがった!古典落語至上初だ!」(粗忽長屋×談笑)
みたいに、元の古典のオチが分かっていれば、
「そうきたか」というまた新しい笑い(というより興味関心)が生まれる。
知っている噺がくれば「あ!知ってる」といい気になれて嬉しいし、それをアドリブでひねられると、「くーやられた!」みたいに噺家の世界観を知らしめられニクイのである。
あとはただ単純に、考えて分かるサゲの時。
ガハハと笑った後に、「私はすぐ分かったから、いの一番に笑える。ムフフ」という優越感すら漂うから、なんともなんとも。

ということで、落語を聞いているときは、「分かった!」という「アハ体験」と同じ脳内麻薬が脳に充満してるはずである。
ぜったい。
加えて、「笑う」ことが目的の場だから、「アハハ体験」も同時にできるのである。
…これぞまさしく「アハアハハ体験」!


ああ、何とも心身に滋養たっぷりな落語。
当分嫁にはいきませぬ。