【独り言】将来予測の奢り

未来を知ることは、科学の発達で、「不可能」ながらも「蓋然性」をともなった予測を可能としてきた。
だが、明日を知る事は、人間にとって、どのような意味を持つのだろうか?

生きることが、この先どうなるかは誰にもわからない。
「おそらく○○になります」「○年以内にこうなります」「これまでの事実から想定すると、あなたはこうなります」という将来予測は、不確実な将来に目星をつける上での適材である。
しかしながら、それは「おそらく」とか「○%の確率で」という注意書きが必ず付随し、確実に予測できることは無いという前提は、唯一’絶対’と断言してよい真実だ。(人は必ず死ぬ、とかいう命題は別にしてね。。)

よって全てを知る事は不可能である。
また情報の実体は、ただそこに存在し、その情報を見ようとする姿勢と、どうやって見るかという視点で切り取られる。見方は千差万別。対象は億千では尽くせぬ。それを全て知ろうとする、全知全能は、作り出された理想であり、全く以て一個人の人間には不可能なことであろう。

確実な物は何も無い。
けれども、人間は知りたがる。知って、漠然と混沌とした状況を、形に落とそうとする。
漠然たるがゆえの「不安」は、その根本要因をはっきりと形作る事で、幾ばくかの「安心」か、不安よりも大きな「恐怖」にと形を変える。
そのどちらになるかは、その見える限りの真実を知った後でないと分からない。

知ってしまう事は、逃れられない将来の予測をつけてしまうことは、不確実な自然の流れの、むしろ逆行する流れを生み出す事であり、人生を単色に定めてしまう事であり、無駄を残す余地をなくすことであり、そこに残る物は、「見えてしまう」無味無臭のつまらなさと希望の欠如に思えてならない。
そして、「知ってしまう」前には戻る事はできない。
それが、確実ではないにしろ、80%という注意書きがついているにしても、そうなると思い込んでしまう。
いくら確実ではないと言われても、予言の中の出来事は、来るべくしてくる、とおもいこんでしまう。

「(ある程度確実な)将来を知る」という事は、「これから起こる絶対的事実」を作る事ではない。
だから、予め、間違う可能性もいくらかある事実を「知らないでおく」という選択肢も残っている。
明日が見えないから、漠然とした希望を持てる。明日が収束するにしても、将来が読めないからこそ今を生きようと藻掻ける。
幻想が、根拠の無い楽観を生み出し、前へ進もうとする歩みを加速させる。


不確実を確実にしようとする行為は、人間の奢りなのだろうか?
だとすればその傲慢さを、自分はどうとらえるのだろうか。

自分の中で答えが見えないのであれば、答えをださないでいることも、一つの選択だ。
まだ知らないでおく、ことは、現実逃避でもなんでもない。
むしろ、現在を生きる上では、非常に合理的な、自然の思考ではないかとも思う。

将来を決めていこうとすること、現実のその先ばかり見つめようと躍起になることは、自然の流れから逸脱しようとする行為となり、逆説的だが、現実逃避のような気がしてならないのだ。