【ひとりごと】恋愛の始まりと、クリムト

 恋愛心理について考える今日この頃。恋愛の始まりは誰もがimaginativeになるから、作家が常に恋愛をしなければならないというスタンスも納得できる。
 恋は、意図せず突然やってくる事象ではなくて、そうなるであろうという幾分かの予感を持って、自分自身で落ちていくのものだ。最近の自分自身の恋愛を冷静に分析すると、そういうことになる。若い頃はその予感がなかった。経験不足から恋が始まるという、一種の勘がなかった。だから恋に落ちた瞬間に、戸惑い、悩み、自分自身の新しい何面もが現れ、戸惑う。だがこの年になり恋愛を繰り返していると、恋の萌芽は出会った瞬間から存在しているっていうことが、わかってしまう。自分の心理メカニズムを、ある程度理解出来ているからなのかもしれないが、それは自分自身を知っているという傲慢な態度で、後で見たことがない自分が恋愛によって引き出され、度肝を抜かれるかもしれない。自分自信は理解しきれるほど浅くはないぞ。気をつけろ。と自戒しておく。
 だから恋をするだろうという予感の元、デートはある。恋は始まらないに決まっている、という予感があってもデートをするのは、少しの予感は感じているから。絶対無い、と思っていてもデートに行くのは、何か発見が欲しいからであり、そこで何か面白い物があれば儲け物、といった心づもり。デートに行かないのは、そういう発見を求める好奇心より、その人と一緒にいたくないという気持ちが勝っているから。
 
 恋に何を求めるのだろうか?
恋をするだろう、という予感は的中することがほとんどだ。そしてその落ちる瞬間を楽しみたいから、意図的に無意識になって落ちていく。「どうしよう恋しちゃった」といって陶酔する過程が必ず恋愛には存在するのは、女の子は誰でも今が初恋と思いたいが所以である。
 そして恋に落ちた後の駆け引き。楽しいけれども辛いものである。待つ時間で想像力は倍増するからである。今はメールがあるから駆け引きの回数も増す。だから恋に落ちる為のデートの思い出が甘美であればある程、記憶にがんじがらめになり、美化され、恋の予感という種から出ていた芽は更に育ち、花咲き、最悪の場合、腐って発酵。実らない恋にぐるぐる発酵していた過去は誰しもあるのではないか。相手が簡単に記憶を消すことが出来る存在か、そうでない存在か、というのも重要である。想像力が働く近い距離にいる人だと、更に恋は忘にくい。
 
 だが今は恋の芽を摘むことも出来てしまう、そんな大人の年齢になってしまった。なぜなら、過去の恋愛事例から自分自身が求めるものがわかっているから。恋に求めること、それは生活の非日常性かもしれないし、想像力かもしれない。救済かもしれないし、安定かもしれない。自分の状況によって違うし、相手によっても違う。今回の恋愛は、自分の忘れかけていた感性を触発してくれる刺激剤が欲しかったのであって、その刺激を幾許か頂いた今は、それでもう満足だ。これ以上刺激があると、その先が怖い。
 そういう乙女の気持ちを表現する、クリムトの名画が好きだ。今作業をしているパソコンの隣に、小さな「The Kiss(接吻)」が飾られている。


絶頂のしあわせなんてものは幻想であって、幸せの後ろに崖があんだよ!気をつけろ!
と恋をするたびに、これまでの経験からの自戒も含めて思い出すことにしよう。





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