【考察】不確実性とセレンディピティ

セレンディピティ」という言葉を再認識している今日このごろ。

先日、著名なフリーライターの方のお話を聞いた。
ビジネス専門ライターであり、小説やゴーストライターまでこなす多才な方であり、非常に紳士なビジネスマンであった。彼の仕事のスタンスとしては、「流されてみる、流れる」と仕事を選ばず、自分の枠を設定しない柔軟な立ち位置で、出版業界で協力なネットワークを築いていた。「プロ」として地位を築いてきた著名人へのインタビュー集も彼の著書であるが、偉人たちも同様に、今ある地位は予め計画されたものではなく、時流に流れてきてたどりそこに着いた、と仰る方が多かったそうだ。クリエイターの箭内 道彦の「流されるから遠くへ行ける」という言葉も、Twitterで流れ皆の共感を得ているところである。(私もTwitterで知った)

経済成熟の日本、かつITの発達により入手できる情報が爆発的に増加している現代においては、長期的プランを立てたところで、数年単位での大きな変化によって修正を余儀なくされることが往々にして起こる。ましてや、災害の発生も含め、一歩先の未来を予測することは難しくなっているのが現状ではないだろうか。
ブラックスワン」でも論じられている通り、ありえないと思っていた不確実性はすぐそこに存在する可能性があり、リスクという想定の範囲外の出来事が生じたときも適切に対応できる柔軟性が今後求められるのではないだろうか。

このような社会の中では、自分自身の現時点での狭い見解で立てた計画が通用するとは思えない。IT業界では、常にトライ&エラーで計画を瞬時に変更する。スピード命なのである。つまり、戦略の視点では「ラーニング思考」であり、前述の「プランニング思考」「デザイン思考」では対応できない。ただし変わらない、というより変化が遅い社会も存在するのであるから、その社会に応じて戦略を立てるという思考ももちろん存在する。
見極めが肝心なのである。


その複雑で先が見えにくい社会に置いて役立つのが、「セレンディピティ」の考え方なのだと、というのが私の考えだ。
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セレンディピティとは、
'何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力'  (by WIki先生)
’アレをやんなきゃなって思ってたときにね、何か何も考えてなくてね、思いつきで、ふっとね、手元にあったコレやってみたら、意外といけんじゃんコレ!てかすごいいけんじゃんコレ!’

というゼロベース思考の直感力のことであると、私は考えている。前述の通り、今現在追求する目的も、立てる計画も、今の自分の情報を組み立てたものであって、広い世界の中で、自分という小さな世界のもがきでしかない。そこに固執すると、広い世界が見えなくなる。変わる世界に取り残されてしまう。
広い世界、変わりゆく世界を見る為には、自分の視点を固定しない方がよいのだ。色々な世界を覗き見して、そこに足を突っ込んでみる。そして新しい視点を得て、今ある自分の引き出しの何かと合わせて化学反応を起こす。

数日前のエントリーで、脳のひらめきはとてもシンプルで、下記の3ステップで起こると書いた。
  ①引き出しへの情報整理、蓄積 <Input>
  ②ゼロベースの発想
  ③新しい組み合わせのひらめき
セレンディピティの能力は、①Inputの領域を固定せずに、②何の気無しに、③新しい化学反応を起こす、というひらめきの一種であるのではないだろうか。

だからこれからのスタンスとしては、現在の自身の無知を知り、世界に対してオープンになり、変化にしなやかに対応して、自分を変えて行くポジションが良い気がする。交通網の発達、グローバリゼーションと情報獲得コストの縮小によって、時間・場所・人を選ばず生きる事が出来るようになった。新しい発見を楽しんで、受け入れて、しなやかに流されてみる力がこれからは必要なのだろう。

そしてアイデンティという概念と、それを追求する事は、現代社会には古い考え方であると私は思う。四次元の中で自分の定点を決める必要は無いのだ。日々変化していく自身に目を向けなければ、過去か未来のどちらかに生きることになってしまう。変化していく自分の核を見つけられるか。核をどこに移動させるか。
変化に富む自分自身を楽しめば良いのだ。










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