【写真】金曜日の甘美な死骸

恵比寿の写真美術展に行ってきた。
金曜ということもあり、20時までの延長開館。
開館時間延長は素敵。(ついでに金曜は無料開館してほしいものだが。)

今回鑑賞した展示は、「日本の新進作家展vol.10」。新鋭カメラマン5人の作品なのだが、そこで写真を眺めながら、ふと「甘美な死骸は…」のくだりを思い出してしまった。
なぜそれが頭をよぎったかというと、断片的な現実のヒトコマをつなぎ合わせて、もしくは加工して一つの化合物として再定義/再構築する試みが、写真の「cell」として成立する表現特性であるなあ、とぼんやりと考えていたからである。

今回のその写真展の1つに、「cellの再定義/再構築」を、鑑賞者の想像力をかき立てる為に意図して行われていたものだったけれども、(写真の大半は自分で意味付けをして表現する試みだが)もし想像力をかき立てることが主目的であれば、自分たちの想像の範囲を超える結果物を提示することも考えられるな、と。むしろ現在の「個」を超えて、強制発想的に想像力を呼び起こす方が、意味が深まる(というよりも意味の振れ幅が大きくなる)だろうなあ、と。

で、そういえば。
人間の深いところまで行ってしまってそれを表現している人たちがいたじゃないか、と。

ちなみに「甘美な死骸は…」は、1920年代にシュールレアリストたちの行った遊びである。
全文は、「甘美な 死骸は 新しい 酒を 飲むだろう」。
それぞれの作家が断片を作成し、それをつなぎ合わせ、予期せぬ発想を生む言葉(絵画)遊びである。
同じ発想で子供時代に言葉遊びをした人も多いと思う。そういうテレビ番組もあった気がする。

個の中に「cell」の表現があるとすれば、「cell」の再構築はその人の意図があって面白い。
ああ、そういう見方もあるのだろう。写真家としての「個」は面白いなあ。となる。
だがその「個」を超えたところにある表現は、「Ooops! Amazing!!」というところまで持って行ってくれるはずである。

とかなんとか考えちゃって。
仕事が嫌で逃げ出した金曜日の夕方。


情報を断片として切り取り、編集して、再定義・再構築するこころみは、さいきん流行っている「キュレーター」の特性だそうな。「フリー」「シェア」「パブリック」「キュレーション」というように、やっとインターネットやPCがふつうの人の生活にもとけ込んだ今、どんな社会になっていくかというマーケティング本が我先にと新作を出している。で、ホットなのが「キュレーション」。
溢れる情報を有識あるフィルタリングによって、意味の再定義とか再構築とか。うんたらかんたら。
美術のキュレーティングは、教育を受けた専門的な知見がある人がやるのだけれども、現代のキュレーティングは特にそういった明確な線引きはないのではないか。
「有識」をどのように定義するかが問題だと思うんだけれどね。

そうやって金曜は恵比寿に溶けていく。

キュレーション 収集し、選別し、編集し、共有する技術

キュレーション 収集し、選別し、編集し、共有する技術