【映画】「アンチクライスト」わかりません

アンチクライスト

ラース・フォン・トリアー監督。
シャルロット・ゲンズブールの演技が秀逸。

この映画の引きずる感じ、どっかで経験したことあると思ったら、監督が「ダンサー・インザ・ダーク」の人だったのね。

あの時の映画のように、精神的な破綻からくる人間とその人間を映し出すカメラワークが織なす繊細な映像表現が、そりゃフラッシュバックで出てくるさの。
実際月曜の夜中に見始めて、もういいよと何度も顔を伏せながら、見終わったはいいが眠れなくなり、火曜水曜は思った通りのフラッシュバック。
’2009年カンヌ映画祭、少なくとも4人の観客が激しい暴力シーンのために鑑賞中に気絶’
wikiより)

作品はキリスト教の背景知識が無いからだろうか、難解で、多々足る伏線が何を意図してのことか理解し難かった。
強烈と一言で言い表すには表現があまりにも陳腐。本能的なセックスへの欲求と、罪悪感からくる自己嫌悪と、極限まで病んでしまった精神が体を蝕み、負のスパイラルのごとく精神破綻、自己否定、自己防衛が故の暴力。自身の精神に深く堕ちていけばいくほど、罪悪の念は払拭出来ずに膨脹するのではなかろうか、と色々思いつつ、映像表現の鋭利さに精神的に耐えられなくなり、目を伏せることしばしば。

前日に見た「冷たい熱帯魚」も血ばかりで見ていて「Full!」と思ったが、まだあちらは演出があり脚本構成が面白かったし、映画!作品!という楽しみ方は出来たが、こちらは精神的に刺さってくる。映画を見終わった後特有の考える為の空白を、この映画は精神的に重くのしかかる映像で埋め尽くしてしまう。


プロローグの、モノクロのスローモーションの映像は美しかった。
白の雪と、黒く陰った室内。雪の降り積もる外へ飛び出る息子と、黒い陰で甘美なひとときの夫婦。
陰で二人は知らぬ間に罪を犯すということだろうか、罪の象徴としての切り取られた映像の章。
これから起こる混沌を示唆するかのような、ドラム(乾燥機)の動きも気になった

作品の展開は、小説のように第1章、2章と大きなくくりで変わって行く。
その構成が教えを与える物語のごとく、見ているこちらに教訓のように感じさせる
プロローグ、第一章「悲嘆」、第二章「苦痛」、第三章「混沌(殺戮)」第四章「3人の乞食」。エピローグ。

息子の死により、悲嘆と自責の念で潰れてしまった妻(シャルロット・ゲンズブール)と共にエデンの森で治療を始める夫(ウィレム・デフォー
エデンの園

アダムとイヴが管理者であった楽園。理想郷。パラダイス。
楽園の管理者のアダムとイヴが蛇の誘惑にそそのかされ禁断の実(知恵の実)を食べ、生命の実を食べ、楽園を追放される。
妻と夫はアダムとイヴか。そうであるならば彼らの罪とは?

セラピストの夫は「グリーフケア」で妻に治療を施して行く。
そこで妻が恐れていたのか、夫の分析が始まるのだが。妻が怖れていた対象が最終的には「Me」と分析する
結局妻の恐れていた者は、自分自身だったのであり、息子が死んでしまう前から精神崩壊の予兆を感じ取っていたかもしれない。
「暴力をふるう男と、ふるわれる対象としての女。だが女の中にも存在する暴力性もある。」その言葉の意図とは何なのだろう。
エデンで森での生命(ドングリ)は何の象徴なのだろう。
「3人の乞食が現れてから誰かが死ぬ」
キリスト教でそんな話あったの?3人の賢者?

性への本能的欲求をキリスト教はタブーとするのか?
その罪を求める女の暴力性。男の暴力性。守るべき対象がありながらも、職務放棄のごとく本能的欲求に理性を失った女。
息子の喪失からの悲嘆。
悲嘆からの罪悪感。を感じるにも関わらず、性への本能的欲求という、人間の動物的本能と精神性の矛盾。
そこからの自己嫌悪が更に増長、苦痛。
嫌悪の矛先が対象となる性にむけられ、暴力を伴い行動に現れる。性器の排除。

タブーを犯し森から脱出する夫。
森へかけこむ女性たち。

難解だ。
象徴表現を多々組み込んでいるが、
読み解くにはキリスト教を理解するしかないのだろう。