【映画】「神々と男たち」宗教と日本

「神々と男たち」

監督:グザヴィエ・ボーヴォワ

アルジェリアで起こった実際の事件を基に制作された作品。
アルジェリアの内戦激化の現実に直面しながらも、そこに留まる修道士たちの思想、信念、愛を描く。自分たちの存在が、その地にすむ人々に求めれていること、応えることが自分たちの指名であると、全員がとどまることを決意する。最終的には過激派に捕まり、殺される運命を辿るのだが。宗教という手段を通して人間の内面を問うテーマ型の映画である。
「あなたは命をかけるに値する、信じる対象、貫く信念がありますか」と。


・彼らにとっては職業、つまり神への忠誠(聖職者としての職務を全うすること)が存在意義。職業=人生。「私たちは鳥だ。枝から離れる時が来る」と一度は去ろうと揺れた心に、
「あなたたちは枝。私たちが鳥よ。枝がなくなったら鳥はどうすればよいの?」
と現地の人々が嘆く。
迷ったあげく「自分の人生は、帰国したフランスにはない」
と、とどまることを誓う。
自分たちの使命こそが自分たちの生きる人生とし、アルジェリアに残る決心をした。
その選択の重さ、死を覚悟してのことだろう。
彼らにとっては、職=アイデンティティであり、全うすることこそ人生なのだ。

・決意の象徴となるワンシーンこの映画で淡々と描かれるリアリティには、象徴表現や伏線を張るような余計なセリフや音楽、演出はないのだか、
唯一、「白鳥の湖」がラジオから流れるシーンがある。涙する修道士の決意と、団結が、唯一メッセージ性が強い。
ブラックスワンを見て間もないため、この象徴に精神崩壊の色を見出してしまいそうになり、人間の無意識化の連想反応は怖い、とつくづく思う)
色々な想いや荷物を捨て、1つの新年に進む人間の何と潔く、まっすぐで心清く強いことか。
シンプリシティの魔力は、ここでも表れる。

「あなたは命をかけるに値する、信じる対象、貫く信念がありますか」と。
問われたとき、私には誇れるものがまだ無い。


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ところで
コーランキリスト教は共存するのか?

宗教。日本にない大きな存在。
日本と違って宗教がある国は、その絶対的真実をテーマにされることが多い。(「アンチクライスト等」)
日本は宗教をパロディにしがちだし(「愛のむきだし」神父が性的欲求から離教し、新興宗教にだまされるというストーリーは、絶対怒られるぞ、キリスト教に。ーただ性的告白を日々懺悔するのは、どっかの映画監督もやってたな。。)
また不確実性の世の中、諸行無常、という世界観がある日本の中で、信ずるに値する絶対的なものが徐々になくなっており、絶対性のなさを肯定する機運も高まっているように思ったりもする。
だから空しく廃れていく日本でもあるのだけど。自然の成り行き。
信念をフィックスする仕掛け、宗教などがあれば、日本はもっと強くなるに違いない。